今回は私、たかやま整骨院院長の高山が施術家の道を進んだ経緯を書かせて頂きます。
生まれながらの自律神経失調症だった
私は子供の頃、自家中毒(はっきりした原因はわかっていませんが子供の心身症と言われています。)で高熱でうなされることが多く、バスに乗れば乗り物酔いで嘔吐、親が笑うくらい些細なことで泣いていました。
本態性型自律神経失調症(生まれながらの自律神経失調症)の典型的な子供でした。
人付き合いがにがってだった青春時代
高校卒業時、自動車とオートバイが大好きでした。
整備士として働きたかったため千葉県の親元を離れ、愛知県にある整備の専門学校へ入学しました。
人と接することが大の苦手だったので、今の仕事(整体)を行うとは夢にも思っていませんでした。
2年通った専門学校の卒業時に整備士の国家資格を取得。東京のディーラーで整備士として働いていました。
22歳、オートバイのプロのレーサーを目指す
ディーラーの整備士をしていた2年目の春に、友人が事故で亡くなりました。
この時、悲しみながらも人生の意味を初めて真剣に考えました。
同じ生きるならなるべく後悔したくないと思い、長年の夢だったオートバイのプロのレーサーを目指すことにしました。
年齢は22歳。プロのレーサーになることを諦めた人たちが、レース界から去っていく年齢でした。
簡単にいうと22歳という年齢はこの夢を目指すには遅すぎる。無謀ということです。
4年間アルバイトを2つ掛け持ちしながらフィジカルトレーニングを研究し、一人で練習を続けていました。(1年で15kg体重を落としました)
生活のすべてをオートバイのレースに掛けた4年間でしたが、結局1回だけ小さなレースで2位になるのが精いっぱいでした。
最後は資金難と気持ちが付いていかず、26歳の夏筑波サーキットでのレースを最後に夢をあきらめました。
1年間休みなく働き続け、減量もなくなる生活が終われば、ココロもカラダも楽になれると思っていたのですが、逆に精神的に不安定になってしまいました。
極度の不眠症になる
夢をあきらめた直後、1か月に3時間しか寝れない酷い不眠になってしまいました。
レースを諦めきれなかった気持ちが起こした不眠でした。
その夏は記録的な猛暑でした。しかし、暑さを全く感じず、汗が出ない異常な状態でした。
季節が秋に変わり気温が下がり、夢を諦めたかけた時、徐々に眠ることができるようになりました。
合気道に出会い、人生を賭ける
30歳を過ぎ合気道に出会いました。
深遠な世界感に感銘を受け、一生この道で食べていけたらいいと思いました。
しかし年齢は30歳、時間を掛けるわけにはいきません。そこで人生の賭けにでました。
最大限の努力をしてものにならなければ、合気道は私の生きる道ではない、だめならそのときはこの道を諦めると決めました。
生活費をアルバイトで得ながら1か月に40回、道場へ通いました。
新宿の本部道場は朝から夜まで1日何回か稽古があったので、朝一番の稽古に参加しアルバイトが終わり夜にまた稽古という日々を送っていました。
家に帰れば、一人受け身の稽古等を行いひたすら稽古を行っていました。
そんな生活を1年続けているとある日の夜に、右わき腹が異常に痛くなったのでした。
20代前半にも同じような症状で苦しみ、救急車で運ばれたことがありました。
その時は原因がわからず食事をあまりとらない状態を続けていると自然に治まりました。
胆道ジスキネジーだった
この時期は毎晩のように夜の12:00になると痛くなり激痛が一晩続き、睡眠はとれませんでした。
しかし、朝稽古には通っていました。
病院で検査をすると明らかに胆嚢が炎症を起こしているが原因は分からないと言われました。
それでも稽古は続けていたのですが合気道を初めて2年目にはカラダのだるさが酷くなり日常生活を送るのも困難になってしまいました。
今思うと胆道ジスキネジーでした。
生き方が変わった鍼灸師との出会い
知人の紹介で鍼灸会の大御所、東明堂 石原鍼灸院へ通院しました。
院長の石原先生はとても優しく真剣に私と向き合っていただきました。
そこで先生にレイキという気功を伝授していただきました。
先生とお会いしてから3か月がたったとき「今度レイキの学校を作るので講師として働かないか?」と打診されたのです。
人と接することが苦手な私は躊躇しましたが、特別やることもないのでもちろんお願いしました。
レイキの講師をさせていただきながら催眠療法の勉強を行っていました。
心理療法の国内における第一人者で日本人初の全米催眠療法協会認定講師中島勇一先生のもとアシスタントなどお手伝いをさせていただきながら、心理学を通し、生き方を学ばせて頂きました。
この時に中島先生と出会い生き方を学んでいなければ、鹿児島には来ていなかったと思います。
ましてや極度の人見知りが整体を行っているとは思えません。
介護の仕事を行いながら、レイキと催眠、カウンセリングを個人でお金を頂きながらさせていただいておりました。
鹿児島に移住、そして現在へ
今から20年前のこの時点が私の施術者としての入り口でした。
私が施術者になったきっかけは酷い自律神経失調症だったからなのです。
自分がマイナスと思っていることが人生の道を開いてくれることがあるのですね。
人生何が自分のためになるのかわかりません。
その後諸事情で34年間住んだ関東をはなれ鹿児島に転移しました。
残念ながらレイキ・催眠・カウンセリングの需要はなく、家族を養うため慣れない肉体労働をしながら、放送大で心理学を学び、産業カウンセラーの資格を取得し、ボランティアで電話の相談員を行っていました。
研鑽を重ねるうちにココロだけに焦点をあてていても改善しない場合が多いことに気付き
柔道整復師の道を選びました。
そして現在、ようやくココロとカラダの両面から施術する方法にたどり着いたのです。